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世界遺産検定の最高位「マイスター」の資格を持つ山本・リシャール登眞さんが10月中旬、3日間の日程で佐渡市を訪れました。世界遺産「佐渡島(さど)の金山」を構成する相川金銀山や鶴子銀山、西三川砂金山などを視察。マイスターの立場から、遺産の価値や保存・活用方法などを探りました。視察のリポートをお届けします。

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リシャール登眞

やまもと・りしゃーる とうま 

2005年、フランス・リヨン生まれ。京都府出身。世界遺産検定の最高位「マイスター」を当時最年少の11歳で取得する。「日立 世界ふしぎ発見!」(TBS)の解答者やミステリーハンター、「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」(テレビ朝日)の「世界遺産博士ちゃん」として活躍する。東京大学文科一類(法学部)に在学中。世界遺産アカデミー認定講師でもあり、世界遺産の重要性や普遍性を広く伝えている。著書に「WOWファクター 心の中の平和のとりで」(小学館)がある。

きらりうむ6(小判づくり)
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独自の手工業が発展、鉱山町の面影今も

 きらりうむ佐渡 

 佐渡視察の始まりは、「きらりうむ佐渡」から。山本さんは、まずは世界遺産「佐渡島の金山」を構成する「相川鶴子金銀山」(相川金銀山、鶴子銀山)、「西三川砂金山」の歴史や特徴、変遷について映像資料や絵巻物のレプリカの展示を通し学びました。

 ガイドを務めた佐渡市世界遺産課の石川喜美子さんは「鎖国をしていた江戸時代、海外の技術はあまり入ってこず、佐渡では高度な手工業で大量の金を産出していた」と説明。世界遺産に登録されたポイントとして、金銀を生産した場所が遺跡として残っていること、保存状態の良い文献が現存し、高度な技術があったことを証明できること―などを挙げ、「世界の金の歴史の中で抜け落ちた部分を、佐渡島の金山は埋めることができる」と強調しました。

 「金が発見されたことで全国から人が押し寄せ、相川は人口5万人の鉱山都市になった。人口密度は高く、お寺もたくさんできた」と石川さん。山本さんは説明に耳を傾けながら、当時の人々の鉱山作業でない日常生活にも思いをはせていました。

 きらりうむでは、観光客に人気の「小判作り体験」にもチャレンジ。横に線を刻む「ゴザ目」を入れるこだわりを見せ、世界で一枚だけのオリジナル小判を作りました。

きらりうむ1
きらりうむ2
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 大切山坑 

 ガイド役の濱邉久弥さん(ゴールデン佐渡)を先頭に、山本さんは「大切山坑」へと足を踏み入れました。

 大切山坑は山師味方与次右衛門(みかた・よじえもん)が寛永11(1634)年に開削し、14年かけ400メートル先の金脈に到達したと伝えられます。坑内の酸欠を防ぐため2本の坑道を平行して掘削、途中で貫通させることで新鮮な空気を確保します。明治から昭和にかけても、採掘が続けられました。

 濱邉さんは、江戸時代の「手掘り」と、トロッコを通すために拡幅された明治期の「機械掘り」の違いを説明。「たがねと槌(つち)だけで掘った江戸時代の坑道はなめらかな仕上がりだが、機械掘りはガタガタになる」と解説しました。

 二つの坑道を分ける壁を指しながら「岩盤が非常に硬くこれだけ薄くても崩れない。他の鉱山では一般的な崩落防止の補強もここではされていない」と濱邉さん。「江戸時代、1日1メートルも掘れば仕事がはかどったと言われるほど硬かった」と話しました。

 途中、山本さんは、2本の坑道をつなぎ空気を循環させる「目抜き穴」や、金鉱石を一時的に溜め、トロッコへ積み込むスペースなどを確認し、当時の手作業が明治以降の機械作業に比肩する精密さと独特の滑らかな坑道表面に驚かされていました。

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 史跡 佐渡金山 

 多くの観光客でにぎわう「史跡 佐渡金山」を訪れた山本さんは、江戸時代の「宗太夫坑」、明治期以降の遺構が残る「道遊坑」の2コースを回りました。

 宗太夫坑では、ガイドの石川さんが、「開山から90年ほどで坑道は海水面の下まで達し、水との闘いが始まった」と説明。「水上輪(すいしょうりん)」を使い、水を地上までくみ上げる「水替人足」について「当初は農家の次男、三男が働いていたが、足りなくなり江戸から(戸籍を持たない)無宿人を連れてきた」と解説しました。

 坑道を進むと、鉱脈を探しながら掘った「狸穴」や換気のため空気を送る「風送り穿子(ほりこ)」の人形、鉱山の繁栄を祈る神事「やわらぎ」を再現した場面も。石川さんは、「たいまつや植物油の火で空気が汚れてしまい、風を送る装置が必要だった」「山の神様は女性なので、女性はやわらぎには参加できない」などと紹介しました。

 続く道遊坑では、V字に掘り進められた「道遊の割戸」の直下まで足を運んだ山本さん。「金山(1989年まで操業)の労働者や家族に話を聞いた際、『鉱山と共に生きてきたことを誇りに思っている』『お父さんが命を削って働いたから自分たちは生きてこられた』と伺った」との石川さんの言葉に、「一面的にとどまらない鉱山に関する貴重な話を伝えていくことが大事」とうなずいていました。

佐渡金山4(道遊の割戸)
佐渡金山s
佐渡金山2
佐渡金山5(道遊の割戸2)

 京町通り 

 「史跡 佐渡金山」を後にした山本さんは、かつて鉱山町として栄えた「相川上町地区」を訪れました。古い町並みが今も残り、金山と佐渡奉行所を結んだ当時のメインストリートは現在、「京町通り」の名で広く知られています。

 ガイドの石川さんとともに歩く山本さんの目を引いたのが、伝統的な町家。狭い土地を有効に利用するため、隣接する家同士が1枚の壁を「共有」する家屋も見られます。石川さんによると、「鉱山の縮小によって社宅が払い下げられ、住民の住宅になった」と言います。瓦屋根には「史跡 佐渡金山」を運営していた「三菱」の紋も。かつての鉱山長の住宅は改装され、シネマカフェとして活用されています。

 坂道の途中、ツタに覆われたコンクリートの塀が現れました。1954(昭和29)年に開設し、72(同47)年まで使われた旧相川拘置支所です。現存する木造の拘置所は珍しく国の有形文化財に登録されています。「交通違反や選挙違反の被疑者がここで拘留されていた」と石川さん。「現在はジャズのコンサートや映画の撮影などに使われている」と聞いた山本さんは、高い天井を眺め「音響は絶対よいですね」と文化財の実践的活用に興味を示していました。

 

 佐渡奉行所跡 

 京町通りを散策した後、山本さんが訪れたのは佐渡奉行所跡。1942(昭和17)年に火事で焼失した江戸末期の「御役所」を2001年に復元しました。敷地内には行政や司法の施設に加え、選鉱、製錬施設などもあり、当時の奉行所が、佐渡の金銀生産の重要な役割を担っていたことがうかがえます。

 ガイドの石川さんは、金を製錬する「灰吹(はいふき)法」で使う鉛板172枚が敷地内の地下から発見されたことを挙げ、「佐渡では鉛はほとんど取れず、(県北の)村上から持ってきた」と紹介しました。

 一方、山本さんは、佐渡から江戸まで金を運ぶ「御金荷の道」沿線の宿場町の様子を今に伝える絵巻物などを眺め、「資料がしっかり残っていることが評価されたのですね」と感心していました。

 続いて選鉱作業を行っていた「勝場(せりば)」を見学した山本さん。塩を使い金と銀を分離する「焼金(やききん)法」の技法や、臼や陶磁器といった発掘調査の出土品について説明を受けました。

 採鉱から選鉱、製錬、そして奉行所に隣接する「後藤役所」(造幣局)での小判製造。1日目の視察を通し、一連の生産工程を島内で一貫して行った佐渡の特異性について理解を深めました。

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京町1
奉行所1
奉行所2

 [1日目を振り返って ]

 金銀の採取に必要不可欠な坑道の中を見る機会を得たことは、非常に貴重な経験だった。特に驚いたのは大切山坑で見た江戸時代の手掘り技術。機械で掘ったところと比べても違いを感じなかった。

 佐渡金山では、鉱石を採掘する金堀大工や作業を補助する穿子(ほりこ)などの他に無宿人も取り上げられていた。江戸期の鉱山労働と向き合っている展示内容は、当時の状況を反映していて訪問者にとって非常に分かりやすいと感じた。

 日本が鎖国で閉じられていた時代、ボリビアのポトシ銀山やヨーロッパの各金山では、機械化が進んだ。一方、佐渡では高品質の金を手作業で効率的に採取し、独自の発展を遂げた。その点が佐渡島の金山の魅力であり、世界遺産として評価されたと考える。

 世界遺産の推薦書では、よく他の遺産との比較をする。ヨーロッパでは村があり、離れた鉱山に働きにいくが、佐渡は鉱山労働が村の仕組みに組み込まれた「鉱山一体型の村」といえる。そこに能や陶芸といった文化が吸収され、島民の積極的な関与により独自の発展を遂げた。

 作家司馬遼太郎はゴールドラッシュの後は廃れる運命にあったアメリカの諸鉱山都市を念頭に佐渡について「町そのものは堂々として…生き残っている」と書いた。今回、初めて佐渡に来て、農林水産業の堅実なサイクル・文化伝統の継承を目の当たりにし、本当にそのような社会であることに胸を打たれた。

選鉱場
版画村
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高度な技術で採掘、

山あいに往時の痕跡

 鶴子銀山 

 鶴子銀山は、戦国時代の1542(天文11)年に発見された佐渡最大の銀山です。2日目は大雨が降るあいにくの天候でしたが、銀山の管理・運営のため上杉景勝が建てた代官屋敷(陣屋)跡や、鉱山労働者が生活した鶴子荒町遺跡、代表的な坑道の一つ、「大滝間歩」などを巡りました。

 ガイドを務めた佐渡市世界遺産課の若林篤男さんは、「地表に見える鉱石を取る『露頭掘り』、銀の鉱脈を掘り進む『ひ追い掘り』、さらには(鉱脈を横断し、水平なトンネルを掘る)『坑道掘り』と、鶴子では3段階の技術の変遷をたどった」と説明しました。

 戦国時代の山城の名残である「空堀」の跡を眺めながら代官屋敷跡へ。若林さんは、「製錬で使う鉛や銀の成分が調査で検出されており、この場所で『灰吹法』が行われていたことは間違いない」と解説しました。また、鶴子荒町遺跡では、生活空間を確保するため、急斜面の地形に平らな「テラス」を造成したことなどが説明されました。

 山本さんが、山道を進むと、滝つぼに入り口がある大滝間歩にたどりつきました。島根県の研究者がロボットを使い内部を調べたところ、「内部は、古絵図などに書かれている通りだった」と言います。

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 西三川砂金山 

 山本さんが続いて訪れたのは、佐渡南西部の西三川砂金山。平安時代の「今昔物語集」にも記述がある佐渡最古の砂金山です。山を掘り崩し、水の力で余分な土砂を一気に洗い流し、底に沈んだ砂金を採取する「大流し」という技法が使われていました。

 若林さんの案内でかつて採掘が行われた五社屋山に足を踏み入れた山本さん。「後世の開発がなく、当時の状況が今も残っている」と若林さんが言うように、山を崩した際に出る「ガラ石」や、傾斜を利用し水を流した石積み水路の痕跡が、所々に見られます。

 「山ごとに異なる水源を使いため池を造成した。水の量や流れを綿密に計算するなど、測量技術が確立されていた」と若林さん。山本さんは前日に「きらりうむ佐渡」で鑑賞した「大流し」の映像を思い出しながら、想像を膨らませていました。

 西三川砂金山は江戸時代中期以降、次第に産出量が減り1872(明治5)年に閉山しましたが、砂金取りに従事していた人々は笹川集落にとどまり、炭焼きや農業で生計を立てました。集落には代々名主を務めた金子勘三郎家や砂金山の繁栄を祈り建てられた大山祗神社などが現在も残り、かつての繁栄を今に伝えています。一帯は2011年、県内で初めて、国の「重要文化的景観」に選定されています。

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 小木町、宿根木 

 江戸時代、金銀の積み出し港だった小木町を訪れた山本さんはまず、木崎神社に足を運びました。木崎神社は1609(慶長14)年に佐渡代官の大久保長安によって建立、金銀が船で出雲崎まで運ばれるまでの「保管場所」としても使われた、ゆかりの地です。

 佐渡市世界遺産課の井藤博明さんは、「江戸時代初期、寒村だった小木町は金銀を運ぶ港として盛んに使われた。しかし、金銀の量が減ると北前船の寄港地として栄えた」と、小木町の変遷を語りました。

 山本さんは、昨年8月、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された扇型の町並みを散策。2階が張り出した家屋の前では、「船乗りをもてなすため、2階は宴会などに使われた」との説明を受けました。小木町の商人たちは、経営不振の時には鉱山に出資をする、パトロン的側面もありました。佐渡が一つの共同体であることを色濃く伝える場所です。

 続いて訪れたのは宿根木。回船業や造船業で栄え、1991年に重伝建に選定されています。山本さんは、「船の廃材を家屋の建材として再利用した」「土地が狭いので、隣同士の窓と窓が重ならないようにした」といった井藤さんのガイドに耳を傾けながら、歴史ロマンに浸っていました。

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宿根木
宿根木

 [2日目を振り返って ]

 長崎県の「軍艦島」(端島)を訪れたほか、スペインの金山史跡「ラス=メドゥラス」を特集する番組に出演したことがある。1日目の相川金銀山は比較的似ており、親近感の湧く鉱山跡だった。

 しかし、鶴子銀山、そして「大流し」が行われた西三川砂金山は佐渡独特の技術を持ち、間近で見られたのが良かった。特に水の流れを計画的に変更していく「大流し」は石見銀山(島根県)などでは見られない高度な技術。世界遺産として把握された価値がよく分かる場所だった。

 「きらりうむ佐渡」でも「大流し」の映像資料があった。観光客が理解できるような内容になっている。実際に訪れると、木々に覆われ作業を想像できないこともあるが、映像資料がその困難を克服してくれている。

 一方、鶴子銀山には、「灰吹法」や「勝場」を含めた「エコシステム」がすでにあった。効率的な「エコシステム」を構築し、相川金銀山など他の鉱山に移植することが、佐渡が発展した理由の一つだ。

 また、小木町や宿根木は、産出された金銀を港から運ぶための重要な場所だった。「船乗りたちの英気を養うため宴会でもてなした」などの話は、金銀山がもたらす別の社会的側面ではないか。

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無名異焼や能、金山が育んだ佐渡の文化

 佐渡視察の最終日、山本さんは佐渡金銀山と関わりが深い「無名異焼」(むみょういやき)を体験。島内最古とされる能舞台のある大膳神社(真野地区)や、トキの森公園(新穂地区)を巡りました。

 佐渡の伝統的な陶芸である「無名異焼」には、酸化鉄を多く含む佐渡金銀山の「無名異土」が使われており、高温焼成には金の精製技術が大きな役割を果たしたとされます。

 佐和田地区にある玉堂窯元を訪れた山本さん。「焼くと3割ほど収縮する」「使うほどにつやが出る」など無名異焼の特性を同窯の細野緑さんに伺った後、コップ作りに挑戦しました。

 慣れないろくろ回しに苦労しながらも、スタッフのアドバイスを受けながら、徐々にコップの形に。15分ほどでコップができあがると、満足そうな表情を浮かべました。作品が焼き上がるまで2カ月ほど。「完成品」が届くのを、心待ちにしています。

 その後、山本さんは大膳神社へ。石川さんが「松と太陽を描いた舞台正面の鏡板は珍しい」と紹介しました。佐渡の能は、石見銀山一帯を監督していた石見奉行(佐渡代官)の大久保長安が能楽師を連れてきたことから島内に浸透、こちらも佐渡金銀山とつながりがあります。

 視察の締めくくりとなったトキの森公園では、佐渡市農業政策課の土屋智起さんが、トキ保護の歴史や野生復帰までの歩みなどを説明しました。土屋さんは、「相川金銀山が開山し、人口が増えると食料確保のため、山中で田畑が造成された。農薬や化学肥料の使用を控えた山中の田んぼにえさがあったから、佐渡のトキは生き延びた」と語り、金山とトキの意外な関係を明かしてくれました。

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 [3日目を振り返って ]

 地殻変動によって佐渡に金が集積し、それを取るために山師が来た。それは、金がもたらした「因果の連鎖」とも言える。金銀山の土を利用した無名異焼など金山を中心に発展した文化や生活を学ぶことができて面白かった。また、造成された田や、田の横に鉱山で培われた技術を使って用意された「江(え)」(水路)を通してトキと鉱山が結びついていることにも驚かされた。

 他の世界遺産では、有名な場所だけを訪れるプランになりがちだ。でも、佐渡には、さまざまな側面がある。金山自体ではない、他の側面に光を当てることが、佐渡の良さや観光の意義に結びつくのではないか。

 3日間を通し、「佐渡は日本の縮図」という言葉に引きつけられた。少子高齢化や世代交代など、国内共通の課題がある中、佐渡の取り組みが、一つのモデルとなり、これからの日本の観光産業を考える上で参考になると思う。

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©2025 金の道事務局

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